読み物

YUTA 須原健夫 境界を潜る ⑥

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primitiveとclassical


primitiveとclassical。


YUTAには二つの異なるシリーズがある。
「匙」は primitiveシリーズ。
「テーブルスプーン」はclassicalのシリーズに含まれている。

以前「匙」と「テーブルスプーン」を例に、primitiveとclassicalについてそれぞれ紹介したことがあったので少し編集して再掲します。
デザインや形状、使い勝手などの参考になれば嬉しいです。

境界「祈り」②

左/primitive  右/classical



primitive」シリーズ|匙、菓子匙

「primitive/アジアの民具や、先住民達の道具は、必要最低限の使い勝手をもってつくられている。
用の美に宿る根源。
現代人にとってそれは、二度と戻ることのできない故郷なのかもしれない。
もはや、その地を踏むことは叶わなくとも、せめてこの場所でその力強さに会いたい。(YUTAの作品紹介より抜粋)」

この一文からも読み取れるように、匙も菓子匙も根源的な素朴さを纏わせた匙たちです。
韓国のスッカラをイメージする人もいるかもしれませんが、きっと須原さんにとっても頷けるものであろうと思います。
造りとしても、YUTAのラインナップの中ではもっともシンプル。
誤解を恐れずに言えば「必要以上に手をかけ過ぎていない。」
あくまでもprimitiveという精神性を、この匙の上では大切にしている。
先端部分こそ、口に含みやすいレベルにするためにごく僅かに丸みを持たせ薄くはしているものの、あくまでも「primitive」というコンセプトの、フォルムやディテールの直線的な要素を優先させています。
切り取られた輪郭の仕上げや細部の叩きの仕上げの「手数」は引き算にしていて、作りこみ過ぎていない。
結果として、素朴で純粋性が感じられるデザインと造りの匙に仕上げています。
手仕事だからといって大切な時だけに使うのではなく、あくまでも道具としてそれくらいのラフな感覚で気軽に使ってほしいなという思いで、皆さんにおすすめしたいです。



「classical」シリーズ|テーブルスプーン、デザートスプーン

「classical/西洋の伝統的なスプーンは考え抜かれたかたちをしている。
用の美を追求した先にある洗練。もはや変化の余地がないようにさえ見えるそのかたちは、日本の景色の中でゆっくりと姿を変えていく。
それは雪が溶けていくように、ごく自然な成り行きなのかもしれない。(YUTAの作品紹介より抜粋)」

“西洋の伝統的なスプーンは考え抜かれたかたちをしている。”
東洋でも、日本以外の中国や朝鮮半島などの東アジア地域では匙と箸を併用していた歴史があります。
しかし食事内容の異なる西洋と東洋においては、西洋のほうでより匙(スプーン)は幅広く用いられ、道具としての発展性も深く求められたのではないでしょうか。
ちなみに日本は食事の場においては一般庶民の間では箸が広く普及しており、今のようなかたちの匙が作られ始めたのは明治末期、機械製造され始めたのは第一次世界大戦後からだそうです。
スプーンとはなんたるか?を考える歴史の長さ。
それが、西洋のスプーンの追求されたかたちの中に看て取れるわけです。
洗練され、これ以上行き着く先はもうないかのように思える中、須原さんはいったい何をもってスプーンと向き合っているのか。
そこにはおそらく日本の美意識とも言われるような、職人的かつきめ細やかで繊細な目線を感じます。
それらをもってして、食事の場面や使う人の所作や仕草を丹念に細やかに想像し、更なる使いよさを与えつつも、余計なものは削ぎ落とし澄みきった最小限の美へ。

先端のすぼまったかたちは西洋の伝統的なスプーンを踏襲することで口抜けのよさを叶えています。
側面は面を取るようにして角を叩くことで潰し丸みが生まれ、叩きの仕事をより丁寧に行うことで、先端も伸びて薄い形状となり、それが口に含んだ時の心地良さを叶えることになります。
柄の先の柄尻は平たく潰されていて、意匠的な意味もあるのかもしれませんが、ふとここを掴んだとき伝わる指への当たりの柔らかさ、掴みやすさを感じます。
「侘び寂び」で言えば、寂びのようなものをこのデザートスプーンに感じます。
枯淡の中にある美しさ。
一見シンプルに見えますが、そこには下ごしらえを丁寧に丁寧に手をかけ、作り込んだ奥深い豊かな本質があり、外側へしみじみと静かに流れ出しています。

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