読み物
清夏の入り口 ②


毎年夏に森谷和輝さんが百職で展覧会をしてくださるようになってから15年が経つ。
昨年展覧会を開催してくださったのも7月。その直前の6月に工房を訪ね、話を伺った。長年仕事や作品と向き合う中、キルンで作るガラスの材料を新しくしていく現実と課題に対して、迷いながら一歩ずつ歩み出しているという状況を話してくださった。
そこからまた一年明けた今、ガラス制作の現場ではどんな変化があったのだろうか。森谷さんに会いに、桜の咲き始めた今年4月に福井県敦賀へ向かい工房でお話を聞いてみると、少々意外な言葉が飛び出した。
バーナーワークの途上
───以前に、ガラスというものは「固まっているけれど原子構造はバラバラで本当は流体とも言える物質」というのを森谷さんからお聞きしてそれ以来ずっと印象に残っています。今年は、まさにそういったガラスの流動性を感じさせるもの…たとえばそれをバーナーワークで作ってみてほしいんですがどうですか?
森谷:そうですね…やりたいんですけどバーナーワークで何をどう作ろうかなと最近は少し頭を悩ませていることも実はあります。自分でも柔らかさを感じるものをやりたいんです。一方で自分が今バーナーの仕事で使っているホウケイ酸ガラスは硬いんです。吹きガラスで使うガラスよりも薄くて硬い。やりたいことはあるんですが柔らかさを表現するには向かない素材だなとも実感しています。硬さが見えちゃうなあと思って。キルンで作っている葉皿とかは自然に感じませんか?
───感じます。融けてながれて広がっていくガラス自身の動きを利用しているから、自然に感じるのかもしれません。
森谷:自分自身で「こういう形にしよう」とか思ってやると、自然な感じにはならない。(そばにあったオーロラグラスを指して)これも、ここをこうへこませようと思ってやっちゃうとだめだけど、たとえばガラスを柔らかくして触るだけとか、止めてみるとか。でもバーナーで融かすタイプのホウケイ酸ガラスは硬いんで、自分からグイグイいかないと形ができない。自分の意思がありすぎないほうが自然に見えるんですけどね。これ(ストローステムの脚の部分を指して)とかもこの細さの棒を作るってことに集中すると、自分が消えるっていうか。キルンみたいにガラス自身の動きでというのとはまたちょっと違う表現がバーナーで作るガラスには必要なのかなと思うんです。形とかが大事だとはぼやーっとは思っているんですけど、どうやって形を作るの?みたいなところで探っている過程です。作っているといやな形は自分でもわかるので、それを少しずつなくしていったらいいんだろうなと。うまくいかない時は休みながらやっています。(キルンワークで制作する)フォールグラスみたいなものを、バーナーで作る発想は難しいでしょうね。僕の(つくる)形っていうのではなく、ガラスの動きによって出来上がる形っていうのがやっぱりいい。
今年の展覧会に向けて
───今年の展覧会に向けてリクエストを出すなら、2021年の個展時にいつもより多めに作って頂いた大鉢。たぶんあれ以来ご無沙汰になっているんですが、お客様からもちょこちょこリクエストを頂くのでお願いしたいものの一つです。
森谷:大鉢ね。そうなんだ、お客様から。僕も好きです。大きな(作品)はいつも何かは入れたいなと思っているんですよね。あと、大鉢サイズのボウルみたいなものは前から構想してます。今回作れるかはわからないけど、前々から作ってみたいと思っているもののひとつ。
あとはお茶(まわり)のもの…sun cupは実際に使ってもらっていいねと言って頂けることが多いようなので嬉しいから、できれば作りたいなと思っています。ただどうなるかはまだわからないです。うまくいかないこともあるので。カップ類と一緒に並べられるような片口もいいかな。片口は去年の新作ですが作る回数がまだまだなので今後はもっとやっていきたいです。最近は新作が少ないです。
───そうですか?百職の展覧会ではまだ出してもらったことないものが目の前にわりと多く並んでいます。楽しい。この脚の長いのはユーモラスなバランス。不思議なうつくしさを感じます。あとこの深皿は使いやすそう。深さがあるから盛りつけの幅も広がるかな。自分用にもほしいです。
森谷:ストローステムは新作です。最初は脚になっている部分をステッキみたいに太くして面白がっていたんですけど、後から冷静になって細くしました。見ていると脚の部分がきれいだなと思って。脚を細くして、試作のものより細部をシンプルにして。プリンを盛ったりするのがいいかなと思っています。
深皿も新作です。普通の日に、毎日使いたいなというのを大事にして作ったやつです。個体差はすごいあります。
───おっしゃる通りですね。今ここに並んでいる4枚を見ても、ガラスの透明度合いなどもずいぶん異なりますね。それが面白い。
森谷:コントロールが未だにうまくいってないです。ただ選ぶのは楽しいかも。もともとクリア皿のSサイズのお皿を作っていたら焼成後に上の段の棚板にくっついていて。たまたま縁の部分が伸びて深くなったのができてきて。この深い形状や感じがいいなと思って。大きさ的には(クリア皿Sサイズと)同じくらいです。ちょっと縁だけ伸ばして。これがねかっこいいなと思っています。
あとは新たに3Dプリンターを導入してます。さっき見てもらったやつです。それで型を作り直して入れ替えていくつもりなので、その辺が自分にとっては楽しみです。
(了)
森谷和輝さんのつくるガラスはどんな種類があり、どんな方法で作られているのか。
ご紹介のため、以前の記事を再掲しました。
展覧会をより深く楽しみたい方は、ぜひこの機会にご覧ください。
「A piece of artwork with glass」
おさらい・バーナーワーク https://tenonaru100.net/photo/album/1121777
キルンワーク キャスティング https://tenonaru100.net/photo/album/1121778
キルンワーク スランピング https://tenonaru100.net/photo/album/1123844
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森谷 和輝(もりや かずき) 略歴
1983 東京都西多摩郡瑞穂町生まれ
2006 明星大学日本文化学部造形芸術学科ガラスコース 卒業
2006 (株)九つ井ガラス工房 勤務
2009 晴耕社ガラス工房 研修生
2011 福井県敦賀市にて制作を始める
清夏の入り口 ①


ガラス造形作家の森谷和輝さん。2011年から毎夏、百職では展覧会を続けて頂いている(2020年の回だけは秋の10月開催)。
実は付き合いが始まった当初、百職で開催する個展に合わせガラスを題材にしたワークショップ開催の話が出た。確か2012年か2013年だったと思うが、開催のための最少催行人数が集まらず実現されなかった。
その後の2014年の静岡手創り市の出展時、来場者向けにパーツを選んで組み立てる風鈴のミニワークショップをはじめてご自身のブースでされたが、人に教える難しさも感じ、以降の開催はしなかったという。
それから十年ほど経った今回、思いがけず森谷さんからご提案があり、念願だった森谷さんによるワークショップを展覧会のプレイベントとしてさせて頂くことになった。「内容はこんな感じで、作業はこんな様子で進めていくのはどうだろうか」とイメージを共有しながら対話を重ね、作品制作も大変な中、並行して開催準備に取り組んで頂いている。
なぜ今回、ワークショップを提案してくださったのか。どんな心境の変化などがあったのかが気になり、展覧会の打ち合わせの合間に少しだけ訊ねてみた。
ガラスと触れ合ってもらうのはすごくいい機会だなと思った
───すごく嬉しかったんですけど、今回どうしてワークショップやってくださろうという気持ちになったんでしょう。
森谷:始まる前にちょっとやるのがいいなと思ったんです。展覧会がいきなり始まるんじゃなくて予告みたいな意味もあっていいなと。ほかにもそういうワークショップをやっている作家さんがいたのも自分への後押しになりました。その方はガラスの花器などの展覧会だったようです。会期の前にその人が作った花器に参加者の皆さんがお花を活けて、楽しかった後にその花器を選べる。それから展覧会本番が始まって、それがすごく楽しそうだなと。自分に置き換えたら、実際ガラスに触ってもらったら、こうやって作ったりするんだと思ってもらえるし、自分なりにお気に入りの何かができて持ち帰る。それっていいことじゃないかと。その後で展覧会が始まって展示に行ったらまた作品の見方も変わるかなと思って。
森谷さん宅での打合せ時、試しに予行演習をしてみることになった時の様子
───よくわかります。展覧会のいい導入にもなるし、展覧会が終わって自分で作ったものが手元にあることで思いや時間が濃くなる気がします。
森谷:同じ大学の先輩である渡辺隆之さん(陶芸家・造形作家)と今年再会した時に「あの時* 作った風鈴、今も使ってるよ」と言ってもらえて(*過去に森谷さんが静岡手創り市出展時にブースで行った『パーツを選んで組み立てる風鈴づくり』のこと)。もうだいぶ昔のことなのに、ええ!あの時のですか!?って、こちらももうびっくりしてしまって。渡辺さんも同じようにその回の手創り市に出展していて、ワークショップはお子さんと参加してくれたんだったかな。その時のことはあまり覚えていないんですけど、その時の風鈴が今もあるっていうのは僕にとっても嬉しかったですね。そこでのワークショップというのはブースに寄ってくれたお客さんにぱぱっと教えるような感じだったけど、僕は教えるのは向いていないなとその時すごく実感しちゃったから、それ以来ずっとやっていなかったんです。
今も相変わらず、人前に出て教えるのは得意じゃないんです。うまくできるのかな。教えるのはほかの人にやってもらいたいくらい。
ともかくガラスと触れ合ってもらうのはすごくいい機会だなと思ったんです。手磨きをやってみる時間をみんなで持つのは思い出としても楽しいものになるんじゃないかと思い至りました。
(了)
new traces


街外れにある湿原の珍しい苔の下から、二万年前の物とみられる大量の道具が見つかった。それらは、道具と言うにはあまりにも自然に戻り過ぎていたし、何より、浅はかな断定を許さない程度には複雑さを持っていた。
いくつかの道具には真円の美しい穴が空いていたから、ひとまず人々はそこを覗いてみたのだけれど、その穴から覗く世界は、縄文時代よりも信仰を感じさせ、弥生時代よりも技術的で、古墳時代よりもさらに立派だった。それは多くの人に文明の頂点を感じさせたし、またそれに伴う破滅すらも感じさせた。
湿原の泥の中で空気に触れずにいたせいで、それらは辛うじて、何かであった事を失わずにいた。今、湿原は表面が乾き、ところどころがひび割れていたが、深い場所にはいつも、固くゆっくりと動く泥があった。それはここでは無いところから流れて来ているようだったが、それがどこなのかは誰にもわからなかった。
掘り出された道具は、固い泥がどこからか運んできたものかもしれなかった。それらはこちらの世界に居場所を持たなかったけれど、人々はそれらが見つかる度に自分達の世界が少しずつ変わっていくのを感じた。まるで世界の方がそれらの道具を含ませる為に変容していくようだった。
固い泥は今や、人々の中にも流れていた。
ゆっくりと彼らの中に景色を描いていった。
ととのえる その空気、風景、姿勢 ⑥


最後に橋本晶子さんの工房を訪ねたのは2019年だった。
今回6年ぶりに岩手での時間を過ごした。
取材当日。
待ち合わせたのは江戸期から続く盛岡の老舗荒物店「茣蓙九(ござく)」さん。
宮城生まれの彼女だけど、盛岡はもうすっかり彼女にとってはホーム。
どこへ案内してもらっても、いつもの挨拶と和んだ空気に包まれる。
茣蓙九さんもふだんから彼女にはなじみの場所。
過去には茣蓙九さんで実演をされたこともあるのだから、それも当然。
こんにちは、と声を掛けながら古い硝子戸をガラガラと空けると、店主の森理彦さんが穏やかに出迎えてくださった。
久しぶりの茣蓙九さんだったが前回訪ねた時と変わらない、ゆったりした時間の流れがあった。
次に向かったわんこそばで有名な「東屋」さんは国内外問わず観光客の方が増え、以前より更に賑わいを見せ、この日は平日ながら名物のわんこそばを食べたいお客様が30人以上待ちで、アテンドしてくれた晶子さんもびっくりの盛況ぶりだった。
わんこそば以外のお食事ならすぐにご提供できますよ、ということだったので今回はスタンダードなお蕎麦や丼物を頂くことに。
ひと通り食事を注文し、少し落ち着いたところでお互いの近況に話題が移り話をしていると、さらっと彼女は
「そういえば、私もようやく山の整備とかの活動を去年くらいから始められるようになったんですよ」
と話した。
世間話のひとつのようになんでもない顔で、この数年の中でもかなり重要なトピックを口にしたので正直たまげたが、ほかの食事客もたくさんいる蕎麦屋で大声を上げては迷惑極まりないので、声を出しそうになったのをなんとか堪えた。
すず竹細工に関わることを少しずつでも次世代に伝えていけたらというのは、彼女が以前からさりげない会話の中で何度か口にしていた願いや希望だった。
それがいったいどんなふうに形になり始めたのだろうと、私としては嬉しさもあり、気になって気になって仕方なかった。
この日取材に来たのは4月の展覧会に向けての作品制作についてお聞きすることが目的だったけれど、彼女の新たな取組みも岩手におけるすず竹細工の将来に大きく関わる重要事項なので、合間を見ながら少しずつお話をお聞きしていった。
駅周辺は都市機能も備える盛岡市の中にも、農業地域はある。
盛岡の大ヶ生(おおがゆう)地域にある江柄集落は、かつては竹細工の産地であったという。
数年前、江柄で最後まで竹細工職人をされていた方が残念ながらお亡くなりになったそうだ。「文化が姿を消していく」という事実に直面した欠落感と切迫感は、すぐそばで関わっている方々には特に大きなものだと感じるし、計り知れない思いがあるだろうとひどく胸が痛む。
しかしなんとか江柄集落で途絶えてしまった竹細工を復興し継承していこうという方々の思いと、生前の江柄最後の竹細工職人さんと親交のあった晶子さんが結びついた。
様々な人が協力し合い、昨年秋についに小さな竹細工サークルを発足された。
その中での晶子さんは、生前の江柄の職人さんから彼女自身が教わったことをサークルの皆さんへ伝えていく指導役という役割を担っている。
月に一度かに二度のペースでサークルは行われているそうだ。
顔ぶれは実際の農家の方もいれば、料理の仕事をしている方、行政勤めの方など多彩。
(今のところ新規の募集はしていないとのことですので、問い合わせ等はご遠慮ください)
竹細工教室というものとは異なり、実際にその江柄の竹細工で盛んに作られていたものはどんなものだろうかと皆で学びながら、少しずつそれらを自分たちの手でも作れるようにという内容で進めていると彼女は話した。
竹割り包丁を手にひご作りを皆で学び、江柄で実際に作られ使われていた古い籠を手本に作ったり、蕎麦を湯切りする柄ざるの補修方法の教習も手掛けているという。
時には地域の近くの山で材料の竹をサークルの方々と採取し、実際の野山に生える竹や他の植物たちの植生なども観察しながら、種類によって異なる竹たちの特徴や見分け方なども楽しく学んでいるという。
実地に足を運び、竹細工を様々な視点から学び、知っていこうとされるサークルの皆さんの行動力、意欲、熱意には心底感動してしまう。
サークルの主要メンバーに茣蓙九の奥さまもいらっしゃるということだったので、少しだけでもお話が伺えたらと思い立ち、晶子さんへの取材翌日に茣蓙九さんを再訪した。
訪ねてみると前日にはいらっしゃらなかった、その茣蓙九の奥さまが偶然にも店に立っていらした。
営業の邪魔にならないように様子を見計らっていたら少々挙動不審な口調になってしまったものの自己紹介すると、奥さまは、まあまあ京都からありがとうございますと頭を低くされるので、こちらこそ急に訪ねてきた分際なのでと恐縮する。
竹細工サークルのお話を伺ってみると、優しいまなざしが更に優しくなった。
「まだ慣れていなくて鉈で手を怪我しちゃったんです。下手だからまだ刃物は怖いんですけど、自分の店で竹細工を扱っているから、それがもっとわかるようになると思うと、橋本さんには本当に有難い気持ちでいっぱいなんです」
弾むような口ぶりで話す茣蓙九の奥さまのまなざしは、明るい希望を映し出しているようだった。
サークルが始まって数か月。
サークル内の若い男性が晶子さんに、竹細工って大変ですね、という率直な感想をもらしたそうだ。
期待の若手人材だけに大変でもへこたれずどうか頑張ってほしいが、今まで竹細工作りを知らなかった人にしてみたら至ってリアルな感想だ。
そうなのだ、自然の恵みを分けてもらい人の手仕事で行うものづくりは、現代人からすれば手がかかるのだ。
人間が歩んできた歴史の途上、生きる上で必要な道具を得ようとするには、身のまわりにある素材を用い「作る」という行為が大なり小なり不可欠だった。
先人の誰もが作ることを得意としていたかというと必ずしもそうではないはずだが、今よりももう少し身近であったことは想像に難くない。
生きることにものづくりがもっと密接に寄り添っていた時代があり、それによって地域ごとの豊かな文化や風土が育まれていった。
竹細工を習う誰もが、美しい竹細工を作れなくてもいい。
大切なのは竹細工を通して、その土地に伝承され根づいてきた風俗や習慣、人間自身の営みを知ることではないかと思う。
過去を知ることで傾向を知り対策を立て、未来への種を蒔く。
ひとつの土地や文化への理解や学びは、異なる土地や文化への理解や学びにも繋がっていく。
新たに始まった竹細工サークルが出来うる限り続いていってほしいと心から願う。
その継続が大きな循環に育っていく可能性は、私の中にも明るさを灯してくれている。
今後岩手へ足を運ぶ際には、皆さんの活動の場にもぜひ通おうと今から胸を躍らせている。
橋本 晶子【はしもと あきこ】略歴
宮城県生まれ
2007年 岩手県二戸郡一戸町で柴田恵氏に師事
2014年「工房からの風」に出展
2015年 日本民藝館展 入選
ととのえる その空気、風景、姿勢 ⑤


新幹線から眺めた富士の山。
そして飯島たまさんの工房を訪ねると、今度は山梨側から眺めることができた。
富士山をこんな身近に感じて暮らすなんて、京都在住の人間にとってはあまりにも非現実的なロケーションで、何度も感心してしまう。
あたりの空気までもまるっきり違うように思えて、深く深く息をした。
山梨県笛吹市。
10年ぶりに飯島たまさんを訪ねた。
でも10年前に訪ねた当時の工房は甲州勝沼であった。
その後、故郷である笛吹に家を建て、新たに移り住んだ。
そして今、彼女はほぼ毎日富士山を眺めながら、猫と暮らし、コーヒーを愛し、紡ぎ、染め、機を織る。
工房兼住居の「川風の調べと紡ぐ家」。
笛吹市は果樹が特産で、特に彼女が棲む一帯は桃農園が多く、川風の調べと紡ぐ家はピーチラインからちょっと入った場所にあった。
家の前には庭があり冬を物語っていた。
数多ある植物たちは愛玩用のものもあれば、草木染に用いるものもあり、それらはもれなく彼女の手でひとつひとつ世話がなされていた。
白樺、アナベル、クサギ、藍、ムラサキ、日本茜…他多数。
葉は枯れ落ち、未だ眠りについてはいたが、木々はしっかとそこに立ち、草花たちも枯れた姿を残しながら土の中で芽吹く準備をしていることが窺えた。
前庭を通り抜け、玄関扉をくぐると織り機が3台もあり、それはそれは大迫力な絵を見るかのようですっかり圧倒された。
ところ狭しと籠や布や糸があり、古いミシンに味わいのあるチェストや家具が合間を縫うように収められていた。
中でもアンティークのインダストリアルなアームライトが大きな存在感を放つ。
部屋の奥は土間で薪ストーブの辺りには、藍甕(正確に言うとステンレスの寸胴鍋)があった。
ふたを開け、中を見せてもらった。
息を詰めて見つめると、発酵の進んだ藍が生きていた。
ぷつりぷつりと泡立つ様子は、時折なんらかの言の葉を呟くかのようでもあり、藍という植物から分けてもらった生命の色がここに在ると目の前の事実が物語っていた。
その途端、不思議な愛おしさがむくむくと湧いた。
わずか5時間ほどの滞在だったけれど、ようやく訪れることができた二代目の彼女の工房での時間は何物にも代えがたいものだった。
外はよく晴れていて、工房内には明るい光が差していた。
灯りをつけずとも自然光で十分なほど。
彼女が染めた草木の色を吸い込んだ糸を見せてもらいながら、たくさんの話をした。
取材途中、いったん小休止し昼食に出かけた。
近所の店がお休みで、少し離れるけどと連れて行ってもらったのは、以前からよく話に聞いていたカレーライス専門店だった。
味は抜群だけど店主さんがかなりの不愛想だからとたまさんは仕切りに気を揉んでいたが、席についてみると予想していたより酷いものではなく(いささか素っ気ないか、ぐらいの)、何事もなく平和に、おいしいカレーライスをたっぷりと平らげた。
帰りの車内でたまさんが
「久しぶりに来たらだいぶ普通程度の愛想になってて、逆になんでだろうと気になっちゃった」
と目を丸くし、笑い合った。
再び工房に戻ると、窓から差し込む日の光はゆっくりと傾き始めていて、織り機にかかっていた布の影は濃くなり、違う表情を見せ始めていた。
最後にと、織り機の前に腰かけ少しだけ機を織ってくれた。
しばらくの間、準備をしながらも話をする。
それが整った次の瞬間には、なめらかにそして楽し気に機は動き出した。
織ることはご褒美でしかない、と彼女は織りながらそう口にした。
小気味よく刻む音とリズムはまるで楽器のようで、彼女の内面から迸る感覚そのものだ。
たくさんのものを見せてもらった中で、ハマナス(浜茄子)染めが気になった。
ハマナス染めは今まで彼女の草木染めにはなく、新たに加わったものだ。
海岸の砂地に絨毯のように広がりながら明るい濃いピンクの花を咲かせるハマナス。
染めには、その根を掘り出して使うという。
きっかけは数年前に彼女が旅をしたフィンランドだという。
そこで見たハマナスの花の鮮やかさと、北欧の空の色の取り合わせが心に強く残っていたという。
庭に植えるとそれそれはいささか元気過ぎるくらいに育っていった。
後に人から
「日本でハマナスは昔から自生している」
と聞き、更に調べてみると秋田県で江戸時代に発祥した秋田八丈(または秋田黄八丈とも)という現在では存続の危機に瀕している織物が浮かんできた。
染めに使う草木染めの中心となっているのが、秋田県内の海岸地域に自生するハマナスで染めた鳶色(それに加え、カリヤスやレンゲツツジの若葉を用いた黄色系統、黒色の3色を基調とする)。
ハマナス染めをするにあたり、秋田の行政から秋田八丈の草木染等に関する江戸から昭和初期までの沿革史を取り寄せることができたそうで、彼女は歴史にならいながら染めに取り組んだという。
学ぶことをおろそかにせず、先人からの継承を尊ぶ。
こういうところが実に飯島たまらしい。
そこから生まれた、淡く漂う中にも深く染み入るような紫がうつくしい彼女の手掛けたハマナス染め。
この機会をぜひ見逃さないでいてほしい。
飯島 たま【いいじま たま】略歴
山梨県に生まれる
2000年から2004年 イギリスや国内を旅し大学へ編入したりするなか糸を紡いで布を織るところを訪ね歩く
2006年から2018年 早稲田大学オープンカレッジ植物染めの講座を受け持つ
2014年 フィンランドの演奏家と共演
2019年/2022年 日本民藝館展 準入選
2024年 日本民藝館展 葛暖簾 入選